『グレート・ギャツビー』のデイジーの魅力

ミア・ファロー 華麗なるギャツビー

顔が美しく、表情や振舞いや発言がかわいらしい女性は実在する。というのも『グレート・ギャツビー』フィッツジェラルド)のデイジーの魅力が分からない、中身がないカラッポだという意見が多いことが不思議でならない。

第一章のデイジーの描写はニック目線のもので、ギャツビーとのやりとりは出てこない。だが、デイジーは普段からこういう人なのだということは判る。ニックは親族であるせいかデイジーに惚れることはないが、魅力的であることは認めている。

笑い声がかわいらしく、美しい顔で、相手の手を握り、世界中でその人ほど会いたかった人はないといいたげに下から顔をのぞきこむ。ささやくような小声で話す。ついいましがた、はなやかな胸踊ることをやってきたというような、これからすぐにはなやかな胸躍ることがはじまるのだというような、そんな気配がただよっている。こんな人がいたら、私なら心惹かれる。

そして、あまりにも浮世離れしているせいか2013年の映画では出てこない台詞、「あのピンクの雲を一つ手に入れて、あなたを中に乗せて、くるくるまわしてあげたいな」(第五章)。こんなかわいらしいことを云う女性になら間違いなく惚れてしまうだろう。

第一章からデイジーの苦悩は伝わってくるし、第四章の結婚のエピソードでギャツビーのことを本当に愛していたことが分かるし、ただの「きれいなばかな子」ではない。もし「きれいなばかな子」だったら、これほど苦しむことはなかったはずなのに。

内面についてあまり書かれていないので魅力を感じないという人もいるようだが、これがフィッツジェラルドヘミングウェイらが編み出したスタイルなのだ。第一次大戦の体験によって、もはや自分の内部をいかに説明したところでわかってもらえない、わかってもらったところでしようがないというところから、外面描写、人間の行動によって、内面を指摘した。

そもそも、内面などというものは本人にしか分からず、すべてのコミュニケーションは錯覚にすぎないのだ。外から見える部分で判断するしかない。私は別に顔が美しければよいと云っているのではない。表情、振舞い、発言、ファッションなどは内面から出てくるものだ。美しいと感じる顔も人それぞれ違う。

私はデイジーに魅力を感じる。あまり書き込まれていないから勝手に色々想像しているのかもしれない。本文に出てくる「チャーミング」の”charm”には「魔法を掛ける」という意味があり、「内面がー」という問題ではない。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。