ドッペルゲンガー 実行不可能なことをもう一人の自分が果たすという解釈

血のアラベスク 吸血鬼読本 須永朝彦

『血のアラベスク 吸血鬼読本』須永朝彦)は吸血鬼伝承、ドラキュラのモデルであるワラキア公国のヴラッド大公などの歴史、文芸、映画、舞台化された吸血鬼について書かれた本だが、吸血鬼に限定しないゴシック・ロマンス、英国怪奇小説についての章がある。その中にドッペルゲンガーについての記述があった。

私は『吸血鬼ドラキュラ』(1897)やその他吸血鬼も『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』(1818)やその他マッド・サイエンティストも、どちらも興味ある分野だが、時代が離れているので、あまり関連性は感じていなかった。同じ時期に映画化されているから何となく近いものとして扱われるのかと思っていた。だが、19世紀イギリスという広い範囲で見ると、うっすらとつながりが見える。

『血のアラベスク 吸血鬼読本』では、『フランケンシュタイン』は吸血鬼譚ではないが、傑作であるのに映画のせいで誤解を受けているので、特に採り上げたとのこと。フランケンシュタインの怪物は科学の力が作り出したものだが、宗教、神の力によって創られた人造人間としてゴーレムが紹介され、そのあとにドッペルゲンガーについて書かれている。

ドイツには<ドッペルゲンガー=Doppelgänger>という言葉があり、普通には<分身>を意味し、ドイツ人は伝統的にこの<第二の自我>の愛好者であると言われます。それは、さまざまな抑圧があって現実には実行不可能なことを自我から分離した<いま一人の自分>が果たしてくれるのではないかという希望的憧憬から発したとされ、また<肉体と魂の分裂>であるとも解釈されているようであります。

この本には変身という言葉は書かれていないが、これは変身願望とも似ている。過去の記事「欲望、特殊能力や変身、失敗 サイレント三国めぐり」『オペラ座の怪人』『ファウスト』『ジキル博士とハイド氏』『グレート・ギャツビー』について「欲望、特殊能力や変身、失敗が描かれていて、多くの人が共感しやすいのだろう」と書いた。私の好む物語の奥底にはドッペルゲンガーが潜んでいるのかもしれない。

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