『グレート・ギャツビー』(フィッツジェラルド)にはマッド・サイエンティスト的な狂気があるところがよい。繊細というか神経症的というか、凡人には思いつかないような描写が多い。
1974年の映画、2001年のドラマ『華麗なるギャツビー』は、どちらもいいところがあり、いまいちなところもある。映画には映画らしい雰囲気があり、ドラマの出来は薄っぺらい。特にキャスティングが難しい。
1974年の映画のギャツビー役、ロバート・レッドフォードは普通のいい人そうな感じで、ちょっとイッちゃっている狂気がなく、ゴッツい。デイジー役、ミア・ファローは本当に浮世離れした雰囲気があり、ただただ顔が美しく、あっちの世界に行っちゃっている感じがする。ただ、原作を読んだとき、自分はおばかさんではないがゆえに苦しんだから娘にはおばかさんになって欲しいと思っているという印象を受けたのだが、ミア・ファローのデイジー自身がおばかさんに見える。
2001年のドラマのトビー・スティーブンスにはシャープさがあり、笑顔も苦悩の表情もよい。いかにもイギリス人という顔だ。もう少し若い頃、『十二夜』の頃くらいならもっとよかった。デイジーはフラッパーではなくて令嬢なので、髪が長いというのは悪くない。
バズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』は悪くはなかった。観る前、ギャツビー役のレオナルド・ディカプリオはかなりゴッツいが、多分演技は繊細なはずだと思っていたが、その通りだった。もう少しシャープな頃ならもっとよかった。
ギャツビーを重点的に描いていて、他の人物はあっさりめなので、そこは原作を読んでくださいと云うことだろう。 豪華な世界を3Dで観られるところがよい。文字を使った映像も3Dに合っていたし、原作にない電話のエピソード、原作では表情が変わるだけのところでブチギレるなど、映画的アレンジで効果的だった。
音楽はもっと古くさい方が好みだが、『ムーラン・ルージュ』の監督なので、リアリズムではなく誇張している。『ムーラン・ルージュ』は好きな映画で、このくらいブッ飛んでいるとそれはそれでいいのだが。サウンドトラックのジャズ・ヴァージョンを別に出すくらいなら、最初からジャズにしてほしかった。重要なところで「ラプソディ・イン・ブルー」が使われていて、笑ってしまうくらい大袈裟な映像なのは好きだ。
惚れた女のために城を作った男が実際にいて、その男をモデルにした映画が『市民ケーン』なのだそうだ。横領した金を三億円も四億円も女に貢ぐという事件が実際ある。横領はよくないけど貢げるものなら貢ぐわと思うか、そんなアホなと思うかで、この作品を気に入るかどうかが決まる。