『ピモダン館』(齋藤磯雄 小澤書店)収録の「ヴィリエ・ド・リラダンの墓」で、ヴィリエ・ド・リラダンの墓がペール・ラシェーズ墓地にあり、墓地のすぐ近くにヴィリエ・ド・リラダン街があることを知った。ペール・ラシェーズ墓地には行ったのだが、帰国当日の朝に急いでオスカー・ワイルドの墓だけ参って来たので、もし知っていたとしても余裕がなかった。またゆっくり行きたい。
「ヴィリエ・ド・リラダン」が全部名字で、通はヴィリエと略すと云うが、このエッセイでは特に規則性はなくヴィリエともリラダンとも略されている。詩について話す肥った家政婦とか、イタリア人の道連れとか、カフェで突然激論が始まったかと思うとまたすぐに仲良くトランプを始める人々とか、色々面白いのだが、興味惹かれたのはリラダンはワーグナーと親友だったということだ。
ボードレールが自宅で引き合わせた。リラダンは二十歳そこそこ、ワーグナーは五十歳だったが、年齢の相違など問題ではなく意気投合したという。ワーグナーはリラダンともルートヴィヒ二世とも友達だとは凄すぎる。リラダンの方がルートヴィヒより年上で、エリザベートと同世代だ。
リラダンはピアノを弾き、作曲もした。ボードレールの詩に曲をつけて歌ったが、楽譜は残っていないらしい。『相思う男女の死』だけはジュディット・ゴーチエという才媛が、リラダンの歌うそばからひそかに書きとめた旋律だけが残っているそうだ。ジュディット・ゴーチエは日本と縁がある人で、そのことについてはまたいつか。
『空想交響曲 幻想文学者の音楽ノート』 (マルセル・シュネデール 東京創元社)にもワーグナーとヴィリエ・ド・リラダンについての記述があった。
1869年、ヴィリエ、ジュディット・ゴーチエとその夫カテュル・マンデスの三人は『ラインの黄金』の初演を観に出かけたときにワーグナーに招待され、二週間滞在した。フランスがワーグナーに敵意を示したときもヴィリエは弁護した。1885年、ようやく世界が敬意を示し始めたワーグナーの哲学的芸術的思想を広めることを目的とした『ワーグナー評論』誌創設のため、ヴィリエ・ド・リラダンはエドゥアール・デュジャルダンに手を貸したという。
こんなところで『未來のイヴ』のヴィリエ・ド・リラダンと 『もう森へなんか行かない』 のエドゥアール・デュジャルダンがつながるとは驚きだ。
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