「慕情」という言葉が出てくる。なかなかお目にかからない言葉だが、こういう心情は今でもなくなったわけではないのではないか。
「──いいなアといふのは、どういふの。踊りが巧いといふ意味か。それともその子がいいといふ意味か・・・・・」
私は「小柳雅子はいいなア」と言つて、レヴイウ・フアンの友人からさう問はれたことがあつた。
「──なんて言ふか、うーん」と私は口ごもつた。
高見順の『如何なる星の下に』(昭和十五(1940)年)は浅草の芸人や踊り子、ボヘミアンたちの哀しさと可笑しさの入り混じった生活、奇妙な人間関係を描いている。
ストーリーよりも都市、劇場、飲食店などの細部描写が興味深い。今読むと素朴なメロドラマだ。過酷な検閲制度で思うように書けなかったらしい。貧困と戦争の足音の中にも、かすかにエロティシズムがある。
語り手の落魄した小説家、倉橋は浅草に仕事場としてアパートを借りている。スケールの大きな小説を書きたいと思いながらもウジウジして、レヴィウを観たり酒を飲んだりしている。憧れの踊り子と知り合いになるが結局どうにもならない。
倉橋が行きつけのお好み焼き屋で働く美佐子から、浅草を猟奇趣味で見ているのではないかと云われ、戸惑う場面がある。猟奇的なものがないとは云えないが、浅草の人たちが真剣に生きているのに興味的な眼で覗かれたら腹が立つのも解るということだ。
この「猟奇」とは何だろうか。『現代猟奇尖端図鑑』(昭和六(1931)年)には女の裸や土人(不適切な言葉だが数十年前までは実際に使われていたという歴史的な意味で書いた)など、当時は珍しかったであろうものが色々載っている。私自身が浅草に興味を持つのも猟奇趣味なのだろうか。失われたものへの愛惜かもしれない。
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