「愛のロボット」 田辺聖子 女が横暴身勝手になった時代、ある男が「やさしい女ロボット」との生活を始めるが・・・

ロボット・オペラ 瀬名秀明

『源氏物語』を読もうと思い、いきなり原文に挑戦するのは無理があるが、せっかく読むならダイジェスト版ではなく全訳を読みたいので谷崎潤一郎訳を買ってみたものの、これでも結構歯ごたえがあり、結局、『新源氏物語』田辺聖子 新潮文庫)から始めることにした。光源氏は目的のためなら手段を選ばない、常軌を逸したところがマッド・サイエンティスト的であり、理想の女性を求め続けても手に入らないところが『ホフマン物語』のようでもある。

田辺聖子に限らず、小説、映画など『源氏物語』の二次創作や解説本でも、「愛」とか「愛する」という言葉が出てくるのだが、愛なんてものは一宗教にすぎないキリスト教の概念であって、実在しないのではないかと思っているのだが、その辺の考察はいつかしようと思っていて、まだしていない。

マッド・サイエンティストや『ホフマン物語』は以前から私が興味を持っているもので、自動人形、ロボット、アンドロイドものに重なるところがある。しばらく開いていなかった蔵書『ロボット・オペラ』瀬名秀明編著 光文社)をふと開き、「愛のロボット」田辺聖子 『おせいさんの落語』(ちくま文庫)収録)が目に入った。以前はそれほど興味ある作家ではなかったのでマークしていなかった。これが読み始めると面白く、オチよりも少し前の小ネタに爆笑してしまった。

冒頭、語り手「僕」が結婚したいきさつ、その妻の酒、パチンコ、水商売の男に付き添われて朝帰り、暴力、挙句の果てには男を作って出て行くという横暴・身勝手が描かれる。コメディ風だが、これが書かれた1973年には実際は男がそうだったのだろう。その悪妻とやっとこのとで離婚した「僕」は、先輩から「やさしい女ロボット」を勧められる。東京なら秋葉原、大阪なら日本橋の電気製品問屋街に先輩とともにロボットをひやかしに行った「僕」は、忍従ロボット、芸者ロボット、貞淑ロボット、良妻賢母ロボット、慈母ロボット、いろいろ各種取りそろえ! の中から『小間使いロボット』十七、八歳風を購入する。

ロボットにはネジまき式もあるが、これは電池で、コードをひっぱって差し込むと動く。作中には出てこないが、ネジまき式もあるというのが個人的には嬉しい。電気仕掛けの自動人形は電線を通じて発電所につながってることが想像できる、こんなことが頭をよぎるようなことがあれば自動人形の価値は台無しで、自分の世界に自動人形をとどめたいのなら、自分でゼンマイを巻かなくてはならないと四谷シモンは語っている(太陽81年6月号 特集・ロボット大図鑑)。

言語数は標準語や各種方言や外国語が四、五十だが、部品を取り替えると無限になる。顔は好みで貼りかえられる。「僕」はそのロボットが気に入ったのだが、先輩に「もうちと、色けのあるとこ、入れた方がたのしいのんちゃうか」と云われ、泣く、流し目、忍び笑い、唄うなどの「お色けボタン」を付けてもらう。言語や行動は背中のボタンで操作する。「うれしいねえ」というと「うれしいですわ」と男のいうことを反復させるのがウケるそうで、どのロボットにもついているという「こだまボタン」は「ボッコちゃん」星新一)のパロディだ。

瀬名秀明『ロボット・オペラ』にSF作家ではない田辺聖子の作品を収録したのは、ロボット小説は決してSFの内部だけで書かれ、読まれたものではないことを示したかったからだそうだ。だが、「僕」の態度がロボットとの生活を通して変化する様、ロボットが故障してゆく様、最後に認識がぐるりと転換するところなど、SF的だ。

一見全然別のものに見えるが、現実の女にない理想をロボットに求めて失敗する男というのは、光源氏に通づるものがある。そして愛の非実在を感じさせる。

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