昭和四(1929)年から八(1933)年頃、雑誌「新青年」に載っていたファッション記事、「ヴォガンヴォグ」(Vogue En Vogue)が流行のバイブルだった。単なる風俗記事ではなく、世相風刺、日本文化への皮肉も込められていた。執筆はモダン・ボーイの総帥といわれた中村進治郎と、彼が自殺してからは長谷川修二が分担したこともあった。
探偵小説で有名な「新青年」にこのような読み物があったとは知らなかった。面白いので全部読みたいのだが、「モボ・モガの時代 東京1920年代」(平凡出版社)と『新青年傑作選 第五巻 読物・復刻・資料編』(立風書房)に一部載っているくらいだ。
昭和四年七月号の「街路遊歩術」が傑作なので一部引用する。
近代人たるものは、ひとたび立って舗道を散歩するにしてもゆめおろそかにうかうかと歩いてはならないのである。
姿勢は猫背は避けるべきである。顔は、前方を向けてゐないといけない。飾窓(ウヰンド)に鏡がある所へ来たら、人に気づかれないやうに、こっそりと横目を使ひ給へ。これは帽子のかぶり方や着こなしに欠点がないやうに心づけるためである。
(中略)
銀座を歩くときには、銀座人らしくスマアトにするがいいし道頓堀や京都の新京極だったらなるべく馬鹿な顔をして歩かないと調和がとれない。神戸の元町辺ならば、エトランゼのやうに寂しく歩いた方が、何かいい事があるだらうし、横浜だったらば、支那人に間違へられないやうに、明瞭な日本語で話し乍ら歩くことだ。
お分かりですか?
これが約2500字続くのだそうだ。雑誌のファッション記事そのまま参考にするのはおしゃれじゃない気がするが、和服の人も多かった時代だろうから、こういうのが受けたのだろう。現代でも猫背は避けるべきであろう。
直接関係ないが、カリスマがファッションについてあれこれ語り、読者から絶大な人気を誇ったということで思い出すのは中原淳一の「女学生服装帖」だ。こちらは昭和十二(1937)年から十五(1940)年、雑誌「少女の友」に掲載された。洋服など売っていない時代で、洋服が欲しければ布から選んで作るしかなかった。
戦争が近づくにつれ、内容は地味になり、それでもモンペ姿を描くことは拒否し、軍部の圧力により中原淳一は降板した。多くの読者を失ったという。新聞がイケイケドンドンの記事を書いたのは軍部の圧力ではなく、その方が売れたからだというが、こちらは売れなくなったのだからやはり圧力だろうか。
記事「魅惑のレビュー カジノ SKD 宝塚」に書いたことと同じになるが、戦争などせずにそのまま発展していれば、もっとかっこよく、しゃれた国になっていたかもしれないと思うと、本当に残念だ。
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