『歌劇学校』 川端康成?の少女小説

歌劇学校 川端康成 中原淳一(引用元 「中原淳一展」歌劇学校 – 梅田経済新聞

川端康成が書いたことになっている『歌劇学校』という小説がある。昭和三十六年(1961)のポプラ社版は古本市やネットで見たことはあるが、昭和二十五年(1950)の中原淳一挿絵、ひまわり社のものはネットでも見かけない。存在は前から知っているのだが、全集には収録されてなく、図書館にもなく、古本は高値のため読んだことはない。本人が書いていないので全集に収録されていないらしい。

『歌劇学校』について
カナのブログ 川端康成の「歌劇学校」を読んで 
カナのブログ 平山城児著「川端康成 余白を埋める」を読んで

だが、全く興味なければゴーストライターに名前を貸すこともないだろう。孫引きになるが、川端康成は中学生の頃に出来たばかりの宝塚少女歌劇を見、昭和三十二年(1957)年には宝塚の脚本を書いている。

「近代生活」昭和五年(1930)3月号の座談会「享楽地漫談会」で龍膽寺雄がえらく宝塚を気に入っていて、川端康成がちょっと解説を入れるのが面白い。やはり関西出身なので詳しいのだろう。(『モダン都市文学Ⅰ モダン東京案内』収録)

龍膽寺 宝塚などはそういう意味で非常に明朗で純潔で好い。
岡田三郎 全然純潔ですか、そういう役に立つ女はありませんか。
龍膽寺 恐らく夜の世界にはあの程度のものはどこの享楽地にもあるだろうと思うが、兎に角あの宝塚という感じが与える雰囲気は好い。
岡田 少女歌劇を解剖すると面白い。
川端 龍膽寺君のいうのは歌劇でしょう。宝塚という所は大阪の連れ込み専門の所なんだ、歌劇の方は学校だから・・・・・。

「近代生活」昭和五年(1930)8月号には楢崎勤と初期からのファンを自称する龍膽寺雄が浅草のカジノ・フォーリイの踊子や榎本健一にインタビューする「カジノ・フォーリイ探訪記」が載った。インタビューに参加はしていないが、川端康成も同行している。(『モダン都市文学Ⅱ モダンガールの誘惑』収録)

浅草の興行ものはことごとく見たという川端康成は昭和11年(1936)、上野桜木町から鎌倉へ引っ越し、以後浅草とは縁が切れる。東京宝塚劇場が日比谷にできたのが昭和9年(1934)。もし、もっと早く、浅草にできていれば、川端康成著の『歌劇学校』もありえたかもしれない。だが、宝塚は浅草のいかがわしいレビューと混同されないように「清く正しく美しく」を標語としたのだから、どちらにせよありえないことであった。

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