『恋の手ほどき』 結婚は目的じゃなくて偶然の結果なの

恋の手ほどき 1958

『恋の手ほどき』ヴィンセント・ミネリ監督 1958)は、記事「ガーシュウィンの曲でダンシングな映画」に書いた『巴里のアメリカ人』レスリー・キャロン、記事「『忘れじの面影』死の香り漂う世紀末ウィーンの悲恋」に書いた『忘れじの面影』ルイ・ジュールダン、記事「『ラヴ・パレード』 トーキー初期のしゃれたオペレッタ」に書いた『ラヴ・パレード』モーリス・シュヴァリエと主要キャストがフランス人で1900年パリの雰囲気が感じられる。1950年代らしい、メリハリのないのんびりした映画だが、セットや衣装、音楽は豪華だった。

ミュージカル映画についてのドキュメンタリーでレスリー・キャロン『恋の手ほどき』は少女が娼婦になる修行をする映画で、そんな映画をおおっぴらに作れないからミュージカルにしたんじゃないかと語っていた。ブルーレイのパッケージは「社交界デビュー」と濁した書き方をしているが、Amazonのレビューで「置屋の娘次々は、今日も舞妓修行に余念がない。」と書いている人がいて、こちらが正しい表現だ。その予備知識がなければ、よく分からない映画だと感じただろう。

無邪気な少女が大伯母のところで行儀作法を仕込まれる。その大伯母が住んでいるのが記事「ラップ通りの集合住宅の中」に書いたアパルトマンなのだ。自分が見たことのある建物にレスリー・キャロンが入って行く映像が写り、ちょっと嬉しかった。

少女は大伯母に「私たちは結婚しないのね」と云う。このあたりは娼婦修行なのだと知らなければ訳が分からないだろう。その問いに対する大伯母の答えが素晴らしく、納得できた。「してもいいのよ ただ 結婚は目的じゃなくて偶然の結果なの」というものだ。上の短い予告にもその台詞があるくらいなので、重要な部分なのだろう。

現代日本のネット上で出会いを探すと援交女とひまつぶし女ばっかりだ。もう一種類、婚活女というのもいるが、婚活も楽しみのためではなくビジネスのためという意味では援交と同じカテゴリーに含まれる。こんなのと関わっていると本当に女嫌いになるなと思っていたところに奇蹟的に好みのタイプですごく趣味の合う人との出会いがあった。ただワケアリなのだ。仲はいいのにタイミングが悪いという、本当にいつもいつもこうだ。この先どうなるのか分からないが、まあ、いい。不確定要素が人生を面白くするという。私も年齢を重ねた分、熱くならずにいられる。

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