私には幽霊は視えず、超常現象には全然縁がない。だが、ドッペルゲンガーはありえないことではないと思っている。
私が地震を機に移住してから、前に住んでいた土地には年に数回、あるいは一回くらいしか行かない。数年前、その街に行ったとき、過去に縁があった知人を見た。「あ、○○さん、お久しぶりです」などと私から声をかけて、しばらくしゃべっていたら、相手は体の前で手を振る身振りをして「違います」と云った。他人のふりをされたのだろうか。私は混乱したまま、その背中を見送った。あれは他人の空似だったのか。
少し似ているくらいなら私も別人だと気づいたはずだが、極端に背が高く、眼鏡をかけているという特徴まで同じだった。日常的に会っている人なら「昨日○○さんに似た人に会いましたよ」と本人に話せるが、何年も会っていない人なので、そうもいかない。
迷信深い時代だったらドッペルゲンガーだと思ったことだろうし、もし死んだ人に似た人なら幽霊だと思ったことだろう。区別がつかないくらい似ている人が存在するならば、自分が自分に似ている人に遭遇する可能性もある。
もうひとつ思い出した。ドッペルゲンガーや幽霊についてではないが、イメージしたものが現実と区別がつかないくらいはっきりと目前に現れるという人がいるらしいのだ。
発明家ニコラ・テスラの自伝に、その記述がある。
子供時代のわたしはイメージの出現による特異な葛藤に悩まされていた。それはしばしば現実の物体をおおい隠し、思考と行動を妨げる強烈な閃光をともなった。
(中略)
なにか言葉が耳にはいると、指示された物体のイメージが目の前にありありと浮かび、時として自分が見ているものが、現実かどうか区別できなくなった。これは非常な不快と不安をもたらした。
(中略)
こうした苦痛を理解してもらうために、わたしが葬式とかなにか神経をすり減らす光景を目撃したと仮定してほしい。その後、夜の静寂の中でその場面の鮮明な映像が不可避的に割り込んできて、いくら消そうとしても、消えずに残り続けるのである。時には腕を突き通しても、まだ空間に張りついたままだったものだ。
『ニコラ・テスラ自伝 ―我が発明と生涯―』(新戸雅章訳 テスラ研究所)より
これは激しい興奮のもとで脳から網膜に伝わる反射行動の結果で、他の面では正常で沈着だったので精神の病や苦痛から生み出される幻覚などではなかったと、テスラは書いている。
私にその能力はまったくないが、視えないはずのものが視える人はいるということだ。