薩摩治郎八 恋に芸術に浪費した巴里の日本人

芸術新潮1998年12月号「特集 パトロン道を究めた男 薩摩治郎八のせ・し・ぼん人生」

薩摩治郎八と何者でしょう。1901年生まれ、木綿商の三代目、祖父の財産を喰い潰し、貴族でもないのに「バロン」と呼ばれる。美人の妻と死別し、戦後は無一文で帰国、後に三十歳下の浅草の踊り子と再婚。

自身の芸術を生み出したわけでもなく、事業を成し遂げたわけでもなく、ただ金を遣って勲章をもらって、尊敬はしないけどうらやましくはある人生だ。

薩摩治郎八 – Wikipedia

『祝祭と狂乱の日々 1920年代パリ』ウィリアム・ワイザー 河出書房新社)というタイトルの本が出ている世界中の芸術家が集まった時代、『優雅な生活が最高の復讐である』カルヴィン・トムキンズ 新潮文庫)や映画『ミッドナイト・イン・パリ』の時代のパリに関わりのある日本人だ。

堀口大學薩摩治郎八の回想録『せ・し・ぼん ーわが半生の夢ー』の冒頭に一文を寄せた。

薩摩君のは、只なんとなく使ったのだ。(中略)自分も楽しみ、人を楽しませる以外の目的なしに只何となく使ったのだ。この点に僕は感心する。

芸術新潮1998年12月号「特集 パトロン道を究めた男 薩摩治郎八のせ・し・ぼん人生」によると、薩摩治郎八ワーズワースシェリーを読んでイギリスに憧れ、1920年に日本を出た。ロンドンに着いてまずしたことは純英国型貴公子姿身の回り品一式を発注することだった。コナン・ドイルやアラビアのローレンスと会ったり、フランスの外人部隊に入隊したり、歌手やバレリーナに入れあげたりしたが、自由を要求する仏蘭西的生活に憧れパリに移住、藤田嗣治ら芸術家たちと交流する。女性関係も派手だったらしく、傑作なのはサラ・ベルナールの弟子にあたる女優をめぐってさる侯爵とピストルで決闘したことだ。その後、カンボジアの密林に金鉱を探しに出かける。戦時中は南仏に軟禁されていたが、ドイツ将校と女スパイを取り合ったとか、ずっとこの調子なので笑ってしまう。

ここまでスケールが違うと嫌味にも感じない。金などというものは誰かが勝手に作った概念にすぎないのだから、遣わなければ意味がないとは思う。以下は『せ・し・ぼん ーわが半生の夢ー』より。

こんな私の生活ぶりは贅沢だ、虚栄だと世間からは指弾されるであろうが、私としては生活と美を一致させようとした一種の芸術的創造であると考えていた。

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