メタフィクション 『浅草紅団』 川端康成

浅草紅団 川端康成

『浅草紅団』川端康成)を初めて読んだとき、風俗描写や会話は楽しめたが、よく分からない話だと思った。再読して気づいた。時系列が行ったり来たりしている。何人かの人物が変装した同一人物だったり、すでに出てきている人物同士の出会いが後に挿入されていたり、はっきり描かれていない人物が後で重要になったりする。登場している人物が誰なのかを把握していれば、特に複雑な話ではない。

「「尖端的だわね。」――『浅草紅団』の〈目〉」高山宏 文学7,8月号 特集・浅草と文学)に、「とにかく浅草の人間は古いよ」と赤木が云っているように書いてあるが、これは語り手である「私」の間違いだ。そのくらい混乱しやすい。

同論文に、『浅草紅団』は作者介入を繰り返すメタフィクションであると書いてある。私も初めて読んだとき、一旦中断してまた再開したとわざわざ書いてあったり、映画化されてその映画では弓子が死んだことになっているが小説では死んでいないとか、何なんだこのメタフィクションはと驚いたものだ。だが、中断も映画化も本当にあったことだと知ったときはもっと驚いた。

映画化された1930年、1952年の『浅草紅団』と1953年の『浅草物語』を見たいが、見る機会が全然ない。

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