『快楽』マックス・オフュルス監督(1952) モーパッサン原作の快楽にまつわる三つの物語

快楽 マックス・オフュルス 1952

私は記事「『輪舞』マックス・オフュルス監督(1950) 1900年ウィーンで回る回る恋模様」に、好きで何度か見ているが、どうも感想が書きづらくて記事にしていなかったこと、人物やあらすじを書いても意味がない気がすることを書いた。マックス・オフュルスについて書かれた文章を読んでいると、私が感じたことは間違いではなかったような気がしてきた。

何度か引用した夜想8「亡命者たちのハリウッド」収録の「オフュルスの二都物語――マックス・オフュルスのアメリカ時代」で梅本洋一はオフュルス映画について語ることは困難だと書いている。『映画だけしか頭になかった』(晶文社)収録の「輪舞 快楽」で植草甚一オフュルスを雰囲気主義、スケッチ風なものを好む傾向と書いている。どこがどのように好きなのかうまく書けないのは、雰囲気が好きだからなのかもしれない。

『快楽』マックス・オフュルス監督 1952)はモーパッサン原作の三話オムニバスだ。『輪舞』のような狂言回しは出てこないが、ナレーションが入り、『輪舞』と同じような技巧で撮られている。

植草甚一が面白いことを書いているので、もう少し引用したい。

オフュルスは俳優を雰囲気のなかの点景人物のように使いながら映画をまとめているわけである。人物の性格を描くというのとは出発点がまるで異なっているのだ。

いいね、こういうの。やはり気持ちとか性格より目に見えるものが全てだ。ただ、これをやるにはセットや衣装に金がかかるだろう。実際、『快楽』は予算オーバーで一時撮影中止したらしい。

この映画もやっぱり雰囲気なんだよね。流麗なカメラワークとよく云われるが、「ああ、流麗なカメラワークだなあ」などと思うのは映画作りや映画そのものに興味ある人だけで、そんなことは考えずに見るのが本来の姿だろう。見ている人の意識の流れが途切れないようにするためのテクニックであって、テクニックが先ではない。そのおかげで会話が多いシーンも単調にならない。とはいえ、見ていたら、えっ、今のどうやって撮ったの? と思うようなカットが突然現れるから驚く。

『輪舞』にもあった、不安定な斜めの構図は『快楽』にも出てくるが、それが不自然ではなく、人物はまっすぐに見えて、ピタッと極まっている。前後左右のみならず上下にも移動するカメラ、前後に物があって奥行きのある構図など、どのカットも美しい。

内容について全然書いていないが、多分内容よりヴィジュアルが大事だろう。ダンスホールの喧騒、暗いアパルトマン、夜の街、娼館、汽車、田舎道、美術館、ガラス張りのアトリエ、画廊などなど雰囲気のある場所で語られる、快楽と愛の対立、快楽と純潔の出会い、快楽と死についての物語。いいわー、この『快楽』のみならず今まで見てきたマックス・オフュルスの映画を私が好きなのは、そこにいる人物をそのまま撮っていて、綺麗ごとを云っていないところだね。

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