『ローマの休日』 王女と新聞記者は性交したのかしてないのか論争

最近、ちょっとしたきっかけがあって『ローマの休日』ウィリアム・ワイラー監督 1953)を見た。かなり昔に一度見たが、ほとんど忘れていた。改めて見たら、これ本当に面白いですね。女子に人気のラヴストーリー程度に思っていたら大間違いだ。説明台詞ではなく完全に映像で見せているし、脚本、映像、音楽、俳優のすべてが素晴らしい、笑えて泣ける奇跡的な映画だ。秘密の冒険は男にとっても憧れなのだ。

映像特典で監督や俳優の関係者が語っていたところによると、ウィリアム・ワイラー監督は手がける作品の選択にかなり悩む人で、時には何か月も悩むこともあり、構成が甘い脚本には決して手を出さなかったそうで、私はそのことにとても納得した。

『ローマの休日』について検索すると上位に表示される下記のブログ記事を目にし、そういうこともあるんだな程度に頭の片隅に置きつつもそれほど気にせずに字幕で見たところ、私はベッドシーンが想定されている箇所はないのではないかと感じた。

「ローマの休日」でアン王女のベッドシーンが想定されている箇所について

一回見て、とても気に入ったので吹替えでも見ることにした。その前に上記の記事をきちんと読み、コメント欄で侃侃諤諤しているのも読んだ。記事は性交した説を前提に書かれ、コメント欄で声が大きいのも性交した派、性交してない派は少数派だが、私は性交してない派の方が説得力があるなと感じた。

決定的なのは「記者の部屋のベッドは、アン王女が出て行く前に、イタリアのおばさんが部屋の掃除した時のまま、ベッドは全く使用された気配がありません。」というコメントだ。

実際は何もなかったのに何かあったと勘違いするイタリアのおばさん

イタリアのおばさんが片付けた後 王女が出ていく前

王女と記者がずぶ濡れになって着替えた後 性交はあった派によると性交後

私自身、どちらにも解釈できる話というのは好きなのだが、ここまではっきりベッドが使用されていない映像があれば、性交はなかったとする他ない。まだ夜でラジオが放送されている時間帯で、記者はネクタイを締めている。はっきり愛してるとか結婚についての話はしない(できない)が、それをほのめかすアパートでの会話が切なくて私は涙を流した。

もしあったとしたら、上記のブログ記事にあるアパートのシーンの前ではなく、アパートのシーンと車のシーンの間なら、話しているうちに段々盛り上がってきてそうなってしまうことはありえるかもしれないと私は感じた。だが、車のシーンの前、アパートのシーンの終わりで記者はジャケットを着るのだ。やはりここもありえない。

処女信仰というと現代日本のもののように思っている人もいるかもしれないが実際は西洋の方が強いはず、西洋には騎士道があり実際は性欲があったとしても理想として性交しない愛もあったはず、手に入りそうだったけど手に入らなかった、結ばれそうだったけど結ばれなかったというような話はいくらでもあることからも、私はなかった派を支持する。これは願望ではなく、推理の結果だ。

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