『一九三四年冬━乱歩』(久世光彦)の本文に『さかしま』を高く評価している部分があり、『さかしま』と比べると谷崎潤一郎の「金色の死」もかなわないとある。かなわないとしても比較されるくらいだから何かあるのだろうと思い、読んだ。
この写真の翌年、大正三年(1914)、28歳のときの作品だ。
谷崎潤一郎は「金色の死」を嫌い、生前はどの全集にも収録されなかった。「私」と少年時代からの友人の岡村君はともに芸術の道を志し、「私」はそこそこ成功したり落ち目になったりするが、岡村君は独自の快楽生活をエスカレートさせていき、死に至る。岡村君の芸術論に矛盾したところがあろうとも、作り上げた人工楽園が凡庸なものであろうとも、かなり強烈な人物ではある。解説の三島由紀夫は、「当時におけるこの作品のおどろくべき独自性は疑いようがない」、美的生活の夢の貧相さは「大正文化の責任と限界」と書いている。
『ドリアン・グレイの肖像』(オスカー・ワイルド)に出てくる、「芸術家で人間的に面白いのは、芸術家として駄目なやつだ。立派な芸術家は作品のうちにのみ存在していて、人間としてはつまらないものなのだ」という言葉を思い出す。岡村君は人間的に面白いタイプだ。小説、詩歌は卑しい芸術で、絵画、彫刻、芝居の順に貴くなり、最も貴い芸術品は人間の肉体だと云って、自分の体も鍛える。そして、サーカスこそが肉体をもって合奏する音楽であり、至上の芸術だとする。
矛盾や極端さはあるのだが、理解できる部分もある。岡村君はロートレックが好きだけあってサーカス好きとのことだ。ロートレックと云えばムーラン・ルージュの踊子も描いていて、派手な見世物という点は共通している。私の好きなミュージカルには、オペラにはないダンス、バレエにはない歌もあり、それらより格は下だとしても稀に声や動きに芸術的瞬間はあると思っている。
岡村君の芸術論は他にもまだまだある。成功した小説ではないかもしれないが、思うまま突っ走る人物の爽快感はある。